創薬治験にウェアラブルを活用 慶應義塾大学医学部耳鼻咽喉科学教室 藤岡正人氏に聞く
IoTとビッグデータが変える医療研究の未来
今年4月、慶應義塾大学医学部耳鼻咽喉科学教室は世界で3例目となるiPS細胞を用いた病態研究に基づく創薬治験の実施を発表しました。この治験はペンドレッド症候群という希少難病に対しiPS技術でアプローチしたことに加え、治験データの測定にIoTを取り入れた点でも画期的なものとなっています。ファーウェイのタブレット端末も一役買っている今回の治験の意義と、IoTやビッグデータがもたらす医療の未来について、治験を統括する同教室専任講師 藤岡正人氏にお話をうかがいました。
藤岡 正人
慶應義塾大学 医学部 耳鼻咽喉科学教室 専任講師
1976年生まれ。2006年、慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程修了。
ハーバード大学上級研究員、慶應義塾大学助教などを経て2016 年より現職。耳科学、聴覚医学、耳科遺伝を専門分野とする。
ウェアラブルやタブレットを活用し治験データを効率的に収集
編集部:今回実施した治験の背景についてお聞かせください。
藤岡氏:難聴、めまい、甲状腺腫を特徴とするペンドレッド症候群という遺伝性疾患は、日本で4,000例、世界でも30万例と比較的症例数が少なく、治療法が確立していない希少難病です。動物モデルでは人間のような進行性の難聴が発症しないため、疾患のメカニズムの解明や治療法の開発が難しい病気と考えられてきました。
当研究室では、同学部生理学教室とのiPS技術を使った共同研究によって、患者さんのiPS細胞由来の内耳細胞で難聴症状の発症のしくみを解明し、それに働きかけて症状を軽減する可能性のある薬剤を特定しました。今回はその薬剤の安全性と有効性を調べる治験となります。
編集部:治験データはどのように収集するのですか。
藤岡氏:患者さんには、検証する薬剤またはプラセボ(薬剤の効果を比較検証するための有効成分を含まない偽薬)のいずれかを服薬してもらい、聴力、眼球の振動、体の揺れの3つを専用機器やウェアラブルを使って自宅で毎日測定してもらいます。この疾患は症状の変動が激しく、日によって難聴やめまいの容態に大きくムラがあります。そのため、外来で来院した時にだけ測定するのでは十分なデータを取ることができません。自宅で毎日同じ時間に、さらに自覚症状が出たら追加で測定してもらうことで、日々の症状の変化をより的確に把握できるようになります。測定したデータはBluetoothやWi-Fiでタブレット端末に送られ、LTE通信でデータセンターに送信され、解析されます。
患者数が少なく症状に変動があるペンドレッド症候群の治験では、自宅で測定したデータを常時収集できれば、定期的な来院によるデータ収集よりも大幅に効率を上げることができます。治験はまだスタートしたばかりですが、これまでのところ順調にデータ収集が進んでいます。最終的には16名の患者さんから10か月間にわたってデータを収集する予定です。
継続的なモニタリングで変動する症状をキャッチ
編集部:今回は測定に医療用機器と汎用機器を併用されていますが、これらはどのような経緯で選定されたのでしょうか。
藤岡氏:創薬に向けた治験では、国の規制の枠組みの中で科学的な裏付けをしっかりと示す必要があります。そのため測定には精度が求められますが、一方で多くのデータを集めるにはコストの問題も考慮しなければなりません。今回は、聴力と眼球の振動の測定には医療機器を採用しましたが、体の揺れについては専用の医療機器を使うのがコスト面で難しかったこともあり、探索的データという位置づけで汎用ウェアラブル機器であるJINS MEMEを測定に使ってみることにしました。特にペンドレッド症候群は発作時に劇的な症状が出るため、汎用機器でも十分なデータが測定できると考えています。JINS MEMEの検討にあたっては、子どもに多い疾患だとわかっていたので、私の娘を連れてショールームを訪れ、実際に装着させてみてこれなら使えそうだと感じ、こちらから打診しました。
データの収集にはファーウェイ製のタブレットを使っています。アンドロイド端末のほうが設定の自由度が高いことからいくつかの機種を試し、最終的にワイヤレスフレンツェル眼鏡とWi-Fi接続の相性がよかった『MediaPad M3 Lite』を選びました。タブレットにはSIMカードを入れてLTE回線に接続し、治験のシステム開発・運用で実績のあるインテリムとCRScubeのデータセンターにデータを収集・保存することで、セキュリティや匿名性も確保しています。タブレット上のアプリで代表値の計算などある程度の解析までしてからデータを送信できるほか、測定時刻も記録されるためデータを時系列順に保存できるなど、医療現場のニーズとデジタル技術がうまくマッチしたシステムを構築できたと思います。
編集部:このように患者さんが自宅で測定したデータを医療機関に送るという取り組みはまだ珍しいのでしょうか。
藤岡氏:睡眠時無呼吸症候群用の呼吸センサーや不整脈を検知する心電計などの事例は出てきていますが、難聴・耳科領域では今回の治験が初めてです。ペンドレッド症候群の他にも、より患者数の多いメニエール病など、耳鼻科領域には症状に波がある疾患が多く、耳鼻科医として外来診療では患者さんの日々の状態のごく一部しか診ることができないという不便さを感じていました。デジタル機器を活用することで、症状を継続的にモニタリングできるのは大きな利点です。これは患者さんにとっても同様で、とりわけお子さんの患者さんの場合、親御さんはお子さんの訴えのみで症状を理解するのが難しいため、状態を常に測定して把握できるのは非常にありがたいという感想をいただいています。こうした取り組みは今後確実に広がっていくでしょう。
AI診療への入り口となるビッグデータ収集
編集部:ICTの活用は耳鼻科医療をどのように変えていくとお考えですか。
藤岡氏:皮膚科などの画像診断ではすでにAIの活用が始まっていますが、耳鼻科領域にもいずれは導入されるようになるでしょう。AIを診断に使うためには、まず機械学習のためのビッグデータが必要です。先述のように耳鼻科の外来診療ではその時点での症状しか測定できず、十分なデータの蓄積ができていません。測定の精度とセキュリティやプライバシーの確保、コストのバランスを取りつつ、さまざまな機器を活用したデータ収集の仕組みを作ることが現在の課題です。内耳分野については、今回、治験用に開発した測定システムに加え、それを使った治験データのフローを手順化したので、これを1つのモデルケースとして他の用途に展開することもできます。
症例のデータを蓄積し、機械学習でパターンを見出すことで、将来的には難聴やめまいの発作の予測プログラムを作りたいと考えています。加齢やストレスによる難聴やめまいは個人差がきわめて大きくパターン化が難しいと予想されますが、ペンドレッド症候群のような遺伝疾患では同一の遺伝子に変異を持つ比較的均質な集団を対象とするため、学習と予測がしやすいと考えられます。まずは今回の治験をきっかけに耳科領域のビッグデータの入口を整備し、AI活用を促進していくことが目標です。
同時に、より広いヘルスケアという文脈では、聴力や運動量などさまざまなデータを測定できるスマホアプリなどが数多く登場しており、健康状態を個人でモニタリングすることが身近になってきています。そうした手段で計測したデータをただ記録するだけでなく、医師がそれを解釈して意義づけするところまでできると、健康の維持により役立つサービスが実現できるのではないでしょうか。医療サイドと機器メーカーやアプリ開発者とのマッチングが促進されれば、可能性はさらに広がっていくと思います。
データ測定用キット
メガネをどこまでインテリジェントにできるか ―――
JINS MEMEの挑戦
株式会社ジンズ MEME事業部 上間裕二氏。写真のメガネは自前の度付レンズ入りJINS MEME。もともとVR分野の研究者として視覚ディスプレイの研究をしていた上間氏は、JINS MEMEの開発の初期段階に大学側の共同研究者として関わっていた。その経験を活かし、現在は大学との連携推進に尽力している
ジンズはメガネメーカーとして、ブルーライトをカットするPCメガネや花粉対策メガネなど、視力矯正だけではないメガネの可能性を追求してきました。その一環として、外界ではなく自分自身を見るためのメガネを作るという発想から生まれたのが「JINS MEME(ジンズ ミーム)」です。東北大学の川島隆太教授に相談し、認知と関連の深い眼球の動きを測定することで脳の状態を知ることができないかと考え、眼電位(角膜側と網膜側の電位差)から目の位置やまばたきを計測できるこれまでにないメガネを社内の開発チームで作り上げました。
JINS MEMEでは、左右のレンズをつなぐブリッジの部分とノーズパッドに搭載された電極で眼電位を、耳にかける部分に内蔵されている6軸センサーで頭の動きを計測します。
近赤外線を角膜に照射して視線を計測するアイトラッカーと比べると測定内容は限定されますが、消費電力は大幅に抑えられます。また、普通のメガネとほぼ変わらない形状で、装着したまま日常生活を送れるため、長時間の計測が可能なことが最大の利点です。現在開発中の次世代モデルでは、すべてのセンサーをブリッジ部分に集めることで、さらに普通のメガネのデザインに近づけています。
ブリッジとノーズパッドに眼電位を計測する電極が、
耳に掛ける部分に体の動きを計測する6軸センサーを搭載
現在は医療、教育、ビジネスの各分野でユースケースを作り、JINS MEMEの価値を高めているところです。医療分野では、藤岡先生の治験のほか、スポーツ科学の領域でランニング中の頭部の動きから体のバランスを測定してケガを防ぐ研究や、眼球運動と疲労の関係を探る研究などを、各研究室と資金やリソースを折半する形で進めています。眠気の推定については実用段階まできており、運転中のドライバーのまばたきの強さや頻度から眠気を推定し、アラートを出すアプリを提供しています。
医療分野での究極の目標は、認知症の予測です。認知症を発症される患者さんは、診断の10年ほど前から目の動きに違和感を感じることが多いという報告があるのですが、まだはっきりとは立証されておらず、経験則にとどまっています。健常時から常に眼球運動を計測してデータを蓄積しておけば、なにか異変が見られたときに早めに手を打てるかもしれない。当プロジェクトのリーダーの個人的な想いもあり、開発当初からこの認知症予測がJINS MEMEの長期的なゴールとなっています。
データビジネスの展開も視野に入れていますが、ユーザーに有益な情報を提供するにはまずデータを大量に集めなければならず、それにはデータ測定のベネフィットをユーザーに感じてもらわなければなりません。このジレンマをどう解消していくかが今後の課題です。
メガネの基本的な形状はもう700年間変わっていません。それだけユーザーに受け入れられているデザインを変えることなく、そのままの形で新たな機能や価値をどう乗せていくか。コンピューターをメガネの形にするのではなく、メガネをどこまでインテリジェントにできるか。メガネメーカーだからこそできる挑戦を続けていきたいですね。